戯言

ひどい話

昨日に引き続き、ド戯言で申し訳ないけど、酔うているので許してほしい。

 

 

僕が住む北九州では、この時期、小倉祇園太鼓とやらで、街中に太鼓の音が響いている。

太鼓の音も鳴り止んだ夜、比較的まだ早い時間ではあるが、僕はテキーラ三杯を飲み終えて、帰路を歩く。

 

日に焼けて色褪せたSUBLIMEのTシャツにUNIQLOの短パンのまま、例の某先輩に誘われ、いつものbarに入った。

 

初対面の女の子、

二の腕から手首までタトゥーが入った初対面の女の子に、サイコロを振らされ、ルールも知らされないまま、テキーラを煽られる。

ひどい話だ。

 

僕は最後のテキーラを便器に吐き出してから、金を支払い、店を出た。

 

昨日も少し書いたけど、僕は下を見て歩く癖がある。メタファーとして、ではなく。

酔って、下を見ながら歩くと、視界をアスファルトが凄いスピードで滑り落ちてゆく。

その景色が嫌いではない。

 

蝉?なのかわからないが、シーシーと規則的に鳴る虫の声に、歩幅を合わせてみる。

滑り落ちるアスファルトを照らす、黄色の点滅信号のリズムに歩幅を合わせてみる。

僕は、湿気を切り裂くように千鳥足で歩く。

SUBLIMEのTシャツを纏い、夏の宵を切り裂く。

風情がある。

 

 

一夜明けて今日のことを書いたならば、夏目漱石ばりに、低徊主義的に書いたかもしれないが、

今は、アルコールが脳を軽く揺すっているから、散文的にしか語れない。

 

 

少し前に、『価値のある言葉』について、記事を書いてくれ、とリクエストを受けた。

素面の時に、これを真面目に考えると、不毛な前提構築から取り掛かってしまうだろうから、

今、まさに脳の視野が歪んでいる今、

僕が見てる狭い視野で語る方が相応しいのだと思う。

 

 

学生時代、はっきりとは覚えていないが、たしか社会学系の講義の中で、主観と客観について某教授が話していたのを覚えている。

厳密に、主観の対義語として、客観という語を捉えるならば、それは例えば宗教や哲学でいう絶対的な真理をも超越した概念を観ることで、つまりそれは、本来、個人には不可能なものの見方である。

 

それ以来、誰もそんなレベルで客観という語を扱っていないことなんて、わかっているけど、

僕は日常の会話でも、客観的に、という言葉を使わなくなった。

 

 

着地を定めずに、このエピソードを書き出してみたら、偶然にも、価値のある言葉について、包括的な文章が書き出されたように思う。

 

たぶん、ここで語ることを求められている価値とは、相対的なそれではなく、誰かの絶対的な価値判断においてのそれを指すのだろう。

主観も主観、ド主観での価値。

 

勝手ながら、その前提で語れば、例えば、僕が名前すら覚えていない某教授の言葉を今だに気にかけているように、

良くも悪くも、絶対値としては、誰かの記憶に刻まれる言葉には、価値があるのかもしれない。

 

そして、おそらく、特定の誰かにおける自分の言葉の価値ということであれば、

それは特定の誰かが近しいほど、絶対値としては大きいように思う。

 

逆説的には、

例えば、記憶に刻まれる言葉の絶対値を足し算してゆくとしたら、

その和が大きいほど、特定の誰かは近しいのかもしれない。

 

さほど記憶に残らない言葉を放つ人と10年過ごすことと、

強い言葉を放つ人と数ヶ月過ごすことは、さほど変わらないのかもしれない。

 

うーん。

アテもなく書き殴ってみると、文字の上では、賛同し難い結論に至ってしまった。

酔いが醒めてきたので、これ以上、考えると、朝を(下手をすれば昼を)迎えてしまう。

 

アルコールを言い訳にして、曖昧にして、書き逃げよう。

 

不運にも今日の記事を読んでしまった皆さん、

ひとつだけ言えることは、

酔っていると自覚している人間が徒然なるままに語る言葉に、価値などありません。

絶対値は0、気にしないで、おやすみなさい。

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