朝、目が覚めると、家のベッドで、昨日の服と腕時計を身に付けたままだった。
ベルトは外してハンガーにかけてあり、靴下は冷蔵庫の前に脱ぎ捨てられていた。
出掛ける前、嫁に頼まれていた食パンは無事に買って帰っていた。
昨日は久々に酔っ払った。
大学時代からの縁で、時々思いついたように飲みに行っては一緒に泥酔してしまう某先輩との恒例行事である。
いつものバーで、音楽とビジネスの話をしながら、ハイネケンを二本流し込んだ後、僕らは夜の街に向かって歩いた。
知らない店に入り、知らない人達の、偏差値が低い話を聞きながら、銘柄のわからないビールを流し込んだ。
そして、また、歩き、いつものバーに戻って、ハイネケンとテキーラを流し込んで、incubusのWish you were hereを合唱して、店を出て、握手を交わして、別れた。
小雨の中を、嘔吐しては、歩き、嘔吐しては、歩いた。
ぐらぐらと視界を揺らしながら覗いたSNSには、
小林麻央氏の死去に関するアレコレ、告知に精を出すバンドマン、画像大喜利、政治に関する浅はかな所感、エトセトラ、
テキーラよりも香ばしい文字情報が並んでいて、僕はまた嘔吐した。
昔、何かの本で読んだ。
宇宙の歴史を、1年間のカレンダーに換算する話。
つまり、
元旦1/1の0:00に宇宙が誕生したとして、今現在までの歴史を1年間に置き換えたら、
人類誕生って、何月何日くらいだと思う?
という話。
人類は12/31の23:59半頃にようやく誕生するのだと。
宇宙の歴史を1年間に換算すると、人類の歴史はまだ30秒にも満たない、という、衝撃的で、つまらない話。
そんな、つまらない話を説明するにあたって、僕は、そのつまらないカレンダーにおける”現在”について、どう説明するか、ということの方に気を取られ始めていた。
そして、これもまた昔、何かの小説で読んだ、アンリ・ベルクソンの時間に関する考察の一節を思い出してみた。
純粋な現在とは、未来を喰っていく過去の捉えがたい進行のことである。
実をいうと、あらゆる知覚とは、既に記憶なのである。
言い得て妙だな、と思うけど、僕は、
ベルクソンに限らず、哲学者全般のことを、賢くて語彙センスに長けた暇人だと思っている。
本人がどう思っていたかは知る由もないが、僕の目には、幸福な人生のように映る。